2023-06-29 フランスで起こった暴動から考えたこと
昨晩、うとうとしかけた頃に破裂音が聞こえてきた。変な時間に花火があがることはそう珍しくないのだけれどあまりにも長く続くのでこれはさすがにバカンスに入って浮かれている花火ではないなとツイッターで「パリ 花火」で調べる。ナンテールの警官による少年の射殺に関する暴動がモントルイユで起きているらしかった。風向きによっては人の声やクラクション、サイレンも聞こえてくる。(あとでわかったことだけれどこの時の音は隣町のモントルイユのものではなく、同じ町の警察署が襲撃された音だった)
暴動が北上してきて家にも火災の被害が起こったりしたら嫌だなと胸が騒ぎはしたが、その時はその時。夢もみずに眠った。
Twitterを検索すると色んな人が色んなことを言っている。だから移民を国に入れるべきではないのだなどという意見や、暴徒はイスラム系だという誤った情報を発信しているものについては自分の感覚とあまりにもかけ離れているので内心憤りつつも諦められるのだけれど、フランス在住だったり社会学者だったりジャーナリストだったりする人が偏った物言いをしているのを見かけると、おそらくこういう言葉が多くの人に信じられてしまうんだろうなという失望が襲う。
私もまだこの国のことはよくわからない。というか、どんなに長く住んだとしても私が知ることのできることは私が見たものだけだ(それは母国の日本にいたって同じこと)。私の生活圏から、経済圏から、文化圏から、交友範囲から見たものごとは限られているし、そこから見つめたものには必ず色がつく。「きっと色がついている」とどんなに意識したって、自分の視点を完全に捨てることはできず、想像すらその中からするしかない。
ということは逆に、私が感じていることとTwitterでの言説のズレをどちらが本当は正しい、と言うことだってもちろんできはしない。
けれど「自分の見たものにはバイアスがかかっているかもしれない」という意識を持ちながら話すか、そういう疑いを持たないでいるかの違いは大きい。
「自分の環境からしか見ることのできない」景色を「これがフランスです」と語ることの危険も、それを鵜呑みにすることの危険も考慮されず、ただ素朴にセンセーショナルなものとしてやりとりされている、その態度にため息をついてしまう。
2015年のパリのテロや、2020年のパンデミックによるロックダウンやワクチンの接種による行動規制、パリでの暴力/殺陣事件が起こるたびに、土地柄か派手に報道される。日本で起きたことだったらこんな憶測だらけのツイートは控えられると思うのだけれど、遠い場所の出来事だから現実味もちょっと薄いし、フランスに行ったことがある/住んでいる/専門家であるその人が言うならそうなんだろうと鵜呑みにされる。ある程度は仕方がないと思いつつも、その被害者を身近にして、SNSはなんと残酷なのだと呆然とする。
自分の意見をSNSで言う気持ちがどんどん薄れている。
まず自分の感じていることや信じていることをうまく言葉にできると思えなくなったし、かろうじて言葉にしたところで言いたいようには伝わらない諦めが先立ってしまう。
自分の言いたいことにはこの件に留まらない前提があって、それも含めてを理解してもらわないと伝わらないだろうと思う。それは言葉では到底伝わらないものだ。私の言葉が下手だから、ということ以上に、それは書き言葉で伝えきれるものではないから。例えば時々話したり、どういう感触で生きているかを知ってもらったり、普段何をどう見ているかに触れてもらう必要があるのかもしれない。なぜならそれは私の死生観とつながるものだから。
Twitterで私の言いたいことだけをぱっと言えば、きっと多くの人にとって受け入れられないものになる。
「人権は守られるべき」なんて単純な言葉では語れないと思うようになったし、metoo運動を100%良いものだとも思えない。こんなことを書いたらとんでもない人間だと思われるかもしれない。でも権利に乗っかって他の人の権利を潰している様を多く見かけるし、metooのようなものが却って被害者の立ち直りを阻んでいる側面があるように思われる場面に当たるたびに、前提としては正しいように思えることが、正しくない結果を誘発することは多々ある、人間がそれを扱う限り問題は枝分かれするだけであって、結局人間の根本が変わるようなことに働きかけなければ問題はすり替わって増えてゆくだけだと思う。